奏はドギマギしながら、水槽から身を離した。
「あ、歩こっか」
静かな廊下には、微かに音楽が流れている。やわらかな波の音と、シンセサイザーのメロディーだ。
間接照明だけの廊下は、昼間とまったく違う雰囲気をかもし出す。
まるで深海を歩いているみたいだ。
出口のドアを開けると、外に係員が待っていた。パスをチェックして、次の『南の海の魚たち館』の場所を教えてくれる。
屋根付きの渡り廊下を歩き、次の館に入った。
イルカ館の青一色と違い、今度は照明がカラフルだ。小さな水槽がいくつも連なり、中には夏っぽいデコレーションを施された水槽もある。造花でひまわり畑を作っている水槽では、どこに魚がいるのか、見つけるのに時間がかかってしまった。
「かずにぃ、そこ! ひまわりの茎に絡みついてるの、タツノオトシゴだよ」
「どこに? どんなふうに絡みついてるんだ?」
「えー、わかんない? こんなふうにだよ」
和威の腕に、奏は自分の腕を絡めた。タツノオトシゴの尾のように、くるりと引っ掛けて――我に返る。
「あっ! ……ね、ね? 分かった?」
弾かれたように離れ、奏は次の水槽に向かう。
和威はクックッと小さく笑いながら、後をついてくる。
「あ、かずにぃ見て見て。ニモだよ。サンゴに隠れてる」
「ニモは映画のキャラ名だろう。クマノミだ」
「あ、そうか。……なんか、前に来た時と季節が違うからか、時間帯のせいか、雰囲気も魚の動きも全然違うね。同じ水族館と思えないや」
「楽しいか?」
「うん、二度美味しい感じ!」
元気に答えると、また和威に笑われてしまった。
――かっこいいなぁ。
うっとり見つめて、とくんとくんと鼓動が揺れて……かずにぃ、好き。と思った。そして直後に、自分も和威に想われているらしいことを思い出し、カーッと頬が熱くなる。
「つ、次!」
意識しまくっていることなど、きっとバレバレだけれど、奏はなんとか平静を装おうとがんばってみる。
二人並んで、廊下を進む。微かな波の音に揺られるように、一歩一歩進んでいくと、次は大きな水槽があった。
チロッと和威の横顔を盗み見ると、不意に目が合う。
「ん?」
どうかしたのか? と尋ねられているだけだと分かっているのに、和威の「ん?」は甘すぎる。両想い初心者の奏は、たったこれだけで動悸息切れが激しくてふらふらだ。
「あっ、あっ、あのさ、あの2匹の魚、なんかキスしてるみたいじゃない?」
なんとか話題を見つけて口にした途端、和威が双眸を細め、ゆったりと口角を上げた。
「あの魚と同じことしたいって、誘ってるのか?」
「……っ!!」
奏は顔を真っ赤にして、声にならない叫び声を上げる。
すると和威が、ナチュラルに腰をかがめてくる。
――どっ、ど、ど、どうしよう!?
緊張がピークに達した奏は息を止め、目を見開いたまま固まって――。
「……へぇ。カワハギの一種らしいぞ」
和威は、奏の腰の位置にある案内プレートを読み上げる。
プレートには確かに、その名前があった。しかも口と口をチュッとぶつけているのは、キスではなく……ケンカらしい。しかも時には、相手にひどい傷を負わせるまで激しいケンカになるという。
「止めないと!」
思わず水槽にべったり張り付いたからか、2匹の魚はそれぞれ背を向けてゴキゲンに泳ぎだした。ほっと一安心だ。
「命拾いしたな?」
「ほんとに……。ケガしなくてよかったよね」
「こんな所だし……な?」
「んぎゃっ」
耳元でささやかれ、奏は耳を押さえて飛び上がった。
真っ赤になった奏に、思わせぶりな笑みを見せた和威は、先に立って歩き始める。
――え、ええー? 今のどういう意味?
バクバクと跳ねる鼓動に翻弄されながら、奏はよろよろとした足取りで和威の後を追った。
楽しさと緊張とドキドキが複雑に絡み合いながら、夜間コースを満喫し、ゴールに到着する。
出口では、記念のストラップをもらった。夜間コースのプレゼントだそうだ。きらきらとしたホログラムの縁取りの中に、入口で撮ったツーショット写真が嵌っていて、なんだか照れる。
写真には、奏がつけているあの貝殻のネックレスもきれいに写っていた。
何も触れてこないけれど、和威は気づいているだろうか。
車に乗り込み、奏は、ほぅ……と満足の溜息をついた。
ふたりきりの夜間コースはとっても楽しかった。途中ちょっとドギマギさせられたけれど、何よりも和威が誘ってくれただけで最高の誕生日だ。
――あれ? でもそういえば、まだ「おめでとう」って言ってくれてなくない?
「何してんだ? 早くシートベルトしろよ」
「あ、うん」
答えたものの、上の空なのでうまく嵌らない。――すると。
「貸してみろ」
奏の上に、身を乗り出してきた和威の影が落ちる。
ふわりとコロンが香り、至近距離で眼が合った。いつかと同じシチュエーション。けれど、あの日とは何かが違った。
奏は息を飲む。
そして、わーっと焦った。
「かっ、かっ、かずにぃ、誕生日プレゼントは!? ……あ、あれ? ごめん。違う。催促してるわけじゃないんだっ」
「へぇ? 大胆なお誘いだと思ったんだが」
「お誘い? …………あ」
脳裏に、あのセリフが甦る。
『プレゼントに、俺をくれてやる』
――あれって、やっぱり……そ、そういう意味!?
固まる奏をよそに和威はシートベルトを締めると、奏の首元からネックレスを摘み上げ、ちゅっと貝殻にキスをした。
「行くぞ」
「い、い、行くって、どこへ?」
「さぁ、どこがいい?」
にやっと片頬をあげた和威は、車を発進させる。
公道に出ると、街はネオンに彩られていた。ラジオから流れてくる洋楽に耳を傾ける余裕もなく、奏はそわそわと街並みを眺める。
30分ほど車は走り、着いた場所は――奏でも知っている、高級ホテルの正面玄関だ。
車寄せには、パリッと襟を正したベルボーイが待っていて、車のドアを開けてくれる。「おかえりなさいませ」などと声をかけられ、戸惑いながら降りると、和威も同じように降りてきた。運転席にはホテルマンが乗り込み、車を移動させる。
「あの、かずにぃ……?」
「奥のエレベーターだ」
颯爽とロビーを横切る和威に遅れないように、奏もついていく。小走りにならなくても引き離されないのは、和威がいつもより歩調を緩めてくれているからだろうか。
乗り込んだエレベーターは、四方がすべて鏡になっていて、ただでさえ広いのにさらに奥行きを感じさせられる。
階数表示を見るとかなりのスピードで上昇しているようなのに、振動はまったく感じられなかった。
――上にレストランがあるのかな。こんな高そうなところ……いいのに。かずにぃと一緒なら、どこだって楽しいのに。
自分の誕生日を祝ってくれようとする和威の気持ちが察せられて、嬉しくもあり、申し訳なくもある。
この気持ちを、なんと伝えよう。
奏がそんなことを考えていると、軽い浮遊感の後、エレベーターが止まった。
「降りるぞ」
和威が先に立ち……すいっと、手を取られた。
あまりにも自然に手をつないでしまい、奏は息を飲む。大きな手にしっかりと握られ、廊下へと歩き出した。静かな廊下に人影はなく、突き当たりに扉が一つだけあった。和威はいつのまにか手にしていたカードキーを、ドアに通す。
扉が開かれ、廊下の先に部屋が見えた。奏は驚きすぎて、硬直してしまう。
――ま、まままさか……。
「どうした、奏。プレゼント、ほしくないのか?」
心臓が止まりそうなことを、低い声でささやかれる。
嬉しいけれど緊張しすぎて、奏はいっぱいいっぱいだ。足が棒のようになってしまって動けないばかりか、眦に涙がじわりと浮かぶ。
「受け取りたくないなら、帰ってもいいぞ?」
「いやだ!」
ブンブンと勢いよくかぶりを振ると、くらっと躰が傾いだ。緊張と寝不足で眩暈を起こしてしまったらしい。倒れるほどではなかったけれど、とっさに和威の手が、奏の腰に回された。
覆いかぶさるような体勢の和威と、顔が近づく。
黒い艶やかな双眸に、自分が映っているのを奏は見た。
……胸が、締めつけられる。好き、と思った。和威のことが好きで、恋人にしてほしい。
「……かずにぃ……」
自然と、瞼を伏せていた。
こんな時どうすればいいのか分からないけれど、奏は和威の腕にしがみつき、眼を閉じる。すると……ちゅ、と瞼の上にキスが落とされた。熱くて、火傷しそうなくらいの熱を孕んでいると思った。
和威の唇がいったん遠ざかり、今度は頬に息がかかる。ちゅ、と頬にキスされた。それから鼻先に。そして……、そして。
――ど、ど、どうしよう。どうしよう、どうしよう。おれ、本当に今日……!?
心の中で、混乱の叫び声をあげた時だった。
チン♪
遠くでかわいらしい音がして、ガラガラガラ……と台車を転がすような音が続く。
いつのまにかギュッと閉じていた目を開けると、和威はすでに体勢を立て直していた。奏の背中に手は回しているものの、キスの名残はもうない。
「最後の『おあずけ』であってほしいものだな」
「……え?」
和威の言葉に視線を移すと、エレベーターから降りてきたホテルマンが、ワゴンを押してこちらに向かってくるところだった。
「腹が減っては戦はできぬ、と言うしな。まずは腹ごしらえだ。中に入るぞ、奏」
戸惑う奏を促して、和威は部屋の中に入った。
足元はふかふかの絨毯で覆われていて、奏は夢の中を歩くみたいな足取りになる。腰を支えられていなければ、まっすぐ歩けなかったかもしれない。
廊下の途中から壁はガラスに代わり、夜の街を一望できた。そして廊下には曲がり角があった。角にテーブルと椅子置かれていて、そこを抜けると広い空間になっている。
「すごく、広くない?」
「コーナースイートだからな」
――スイート!
その響きだけで、心拍数が上がってしまう。
しかも部屋の奥には……玄関からはまったく見えない場所に、大きなベッドがどーんと鎮座していた。二つある。けれど、一つのサイズが大きくてあらぬことを想像してしまう。
「セッティングが終わるまで、ここで待ってろ」
和威がそう言うなり、チャイムが鳴った。
壁にかかった受話器を取り上げ、「どうぞ。お願いします」と短く言う。
玄関の方で物音がして、さっきのワゴン車が入ってきたことが分かった。和威は固まっている奏を一瞥し、廊下の角にあったテーブルに戻っていく。
はっきりと聞き取れないが何か会話しているようで、こっそりのぞくと……テーブルに、ホテルマンがフォークやスプーンなどを並べているところだった。
奏に気づいた和威が、こちらに戻ってくる。奏は慌てて姿勢を正し、さりげなく壁に背中を預けて待っている様子を演出してみたりした。――が、まったくさりげなくなかったらしい。顔を出した和威に笑われてしまった。
「おまえはガキの頃から、かくれんぼが下手だな」
「別に、隠れてるわけじゃ……。ていうか、おれかくれんぼ得意だったじゃん! かずにぃがなかなか見つけてくれないから、隠れたまま寝ちゃったことがあるくらい……あれ?」
よく考えたら、剣崎家の庭の茂みに隠れたくらいで、本当に和威は見つけられなかったのだろうか。
――もしかして、わざと?
そんな予感を抱いて和威の顔をうかがうと、……にやっ、と片頬をあげられてしまった。
「かずにぃ、ひどいよ!」
「こら、叩くな」
ポカッと肩を拳で叩いたら、その手を掴まれる。そしてそのまま、壁に押しつけられた。
反対の手も、手のひらを合わせて壁に縫いつけられ……至近距離で、見詰め合う。
和威は真剣な眼をしていた。
まるで愛しいものを見つめるみたいに優しくて、どこか熱い。
その眼に見つめられた瞬間、奏の胸を切なさが支配した。きゅうっと心臓が締めつけられて……想いが、溢れそうになる。
「かず…」
「黙って」
掠れた声が降ってきて、息が、ふっ……と唇にかかる。
何も、考えられなかった。
つないだ手から伝わる体温と脈だけがリアルで、奏は目を見開いたまま……和威の顔が降りてくるのを見つめる。
整った顔の輪郭がぼやけて、……ふにゅ、と弾力のあるものが一瞬だけ触れた。
「……かっ、かずに……」
「ん?」
鼻先を触れ合わせたままの状態で、再び、ちゅっと温もりが触れる。そして、ぺろりと舐められた。和威の舌に、唇を。
濡らされた唇が乾いていく感覚に、和威のセリフの数々が呼び覚まされる。
『奏は、俺のものだ』『プレゼントに、俺をくれてやる』『一度奪ったら、奪い尽くすまでやめてやらないからな』――『覚悟しろ』
和威の声がぐるぐると脳裏に反響し、奏はドーッと汗をかく。
「かかかかかずにぃっ」
――キスしてもらっちゃった……! 嬉しいけど、でもまだ『覚悟』できてないのに!
パニックに陥った奏の足ががくがく笑い、座り込んでしまう。
それでも和威はつないだ手を離さず、奏を見下ろして不敵な笑みを浮かべた。
まるで自分が、今から肉食獣に食べられる小動物になったような気分だ。嬉しいけれど、少しだけ怖い。そう思ったら。
「これくらいで腰抜かしてんじゃねぇよ。今のはたんなる食前酒だ。メインディッシュは、腹を満たした後で……たっぷり味わわせてやるからな。残さず食えよ?」
「……えっ、おれが、食うの?」
バリバリ食われるのは怖いけれど、自分が食らいつく方だと思うと怖さ半減。奏の瞳が途端に輝いた。
和威はなぜか奏の喉元に手を伸ばし、ネックレスを摘み上げる。
そして貝殻にキスをして、思わせぶりに微笑んだ。
どうしてそんなことをするのか奏には分からなかったけれど、和威がそうする姿はまるで儀式のようでかっこいいと思った。
「さ、行くぞ。テーブルも整っただろう」
「うん!」
手を借りて立ち上がり、死角になっていたテーブルに向かう。そこに新たなワゴンを押したホテルマンがやってきて、シャンパンフルートに飲み物を注いでくれた。奏はもちろんノンアルコールだが、和威は普通のシャンパンだ。
水族館デートだけでも十分楽しかったのに、こんなロマンティックな場所で、こんなにも豪華な食事、いいのだろうか。
白いプレートに前菜を載せたホテルマンは、一礼して部屋を去っていく。
ふたりきりになると、和威がシャンパンフルートを手に持った。奏も真似して手にする。
そしてまっすぐ見つめあい、和威が極上の笑みを浮かべた。
「誕生日おめでとう、奏。――18歳だな」
合わせたグラスが涼やかな音を奏でる。
長い長い片想いが、終わりを告げた。